人の時間を奪っているという罪の意識 友達をどうしても信用できない私の心の内側

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人と共に過ごす時間は時に楽しくもあり、苦しくもあるでしょう。気心知れた仲の良い

友達や自分が尊敬出来る人と一緒にいれば当然その時間は楽しいものでしょう。しかし、その一方で価値観が合わない友達や高圧的な態度の上司などと一緒にいる時はその時間は苦しいものになるでしょう。

人と人とが一緒に時間を過ごす時これらのことは大なり小なり発生します。

 このブログで私はよく時間についてお話をしています。

 

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それはそれだけ私が時間の過ごし方について考えるタイプの人間だからです。

そんな私がどうしても逃れられない時間の過ごし方の悩みというか上手くいかないことについて今日はお話します。

それはズバリ『人の時間を奪っているという罪の意識』です。

目次

人と時間を共にした後に襲われる罪悪感

私は人と時間を共にした後によく罪悪感に襲われます。それは様々な状況で発生します。友人とご飯に行ったり、女性とデートしたり、職場の上司や同僚、お客さんとの打ち合わせ(会社員時代)、家族と出かけたり。など。

なぜ罪悪感に襲われるのかというと『私と過ごすよりも他の人やことをして過ごした方がこの人(私と付き合ってくれた人)にとって良い時間だったのではないか』と考えてしまうからです。

 

自分じゃない人と遊んだ方が楽しかったのではないか、無理して付き合ってくれたけど本当は一緒に過ごしたくなかったのではないか、もっと早く帰りたかったのではないか。

この考えは相手の親密性など関係なしに襲ってきます。自分が相手を満足させられていないのではないかという恐怖感が私の中には常にあります。

嫌われてしまうことへの恐れと近しいものがあるのかもしれませんが、正直そのことは自分自身ではあまり考えたことはありません。

ただ単に相手にとって有益な存在であれたかということを考えてしまうのです。

人の時間は有限。だからこそより良い時間を過ごしたい 

人は常に時間の使い方の選択を迫られます。それを意識的、無意識的にしてようがしまいが、結果的には時間の使い方の選択をする必要があります。そして大多数の人がより楽しいことに時間を使いたいと考えるはずです。

 

また、これは私の考えですが、人は楽しく過ごせた時間よりも楽しく過ごせなかったことの方がよく覚えているものなのではないでしょうか。

あの時こうすれば良かった、逆にあれはやる必要がなかったなどの後悔のようなものが頭には残りやすいはずです。

 

常に人は自分が払ったものの効用を頭のどこかで考えるものです。それは自分がかけた時間がより良いものであったかを図る行為なのです。

その背景には有限な時間の有効活用が大人になるにつれて求められることも関係しているでしょう。子供から大人になるにつれ大多数の人は自由な時間を失っていくでしょう。結婚して、子供などを持つと自由な時間はほとんどないと言っても良いかもしれません。

そのため、仕事にしろ家庭内、プライベートにしろ人は時間を有効に使いたいと望のです。

俺って人を信用出来ていないのか問題

先に話した罪の意識。私がこのことを意識するようになったのは大学生になった時くらいでした。ただそのときはそこまで大きな罪悪感ではなかったのですが、社会人になって会社勤めをするようになってから加速度的にこの感覚が強まっていきました。

 

それは先ほど申し上げた通り、社会人にはあまり時間がないからです。そしてなくなる時間と反比例するように社会人は使えるお金の範囲とそれに伴って行動の範囲や選択肢が広がります。

 

なので、限られた時間の中でいかに有効な時間の使い方をするかが求められるようになるのです。そういったことを考えた時に自分と時間を過ごすという選択肢が果たして有効なものなのか。

それを考えだすと自分と時間を過ごした人に対して何だか申し訳なさのようなものが私の中に生じるのです。

 

もちろん、ほとんどの人は本心はどうあれ楽しかったと言ってくれますし、実際また時間を共にしてくれます。しかし、どうしてもそれを本心だとは思えない自分がいるのです。

 

友達に思い切って私のこの罪悪感についての話をしてみたところ、『言葉で楽しいと言ってくれることももちろん一つの証拠だけど、何より実際に何度も時間を過ごしてくれていることが相手が楽しんでくれている証拠なんじゃないの?』と言われました。

 

確かにそうだなと思わされたと同時に私の中で一つの疑問が浮かびました。

『俺は人のことを信用出来てなんじゃないのか?』というものです。

 

結局人のことを信用できていればこんな罪の意識や悩みの数や量は減っていくはずです。全ての人の行動や発言が全ての心の中を投影しているわけではありませんが、少なくとも大多数の人は私と時間を過ごすことに価値を見出していれている。

と、ある意味の信頼感を人に寄せることが出来ればこの罪悪感から少しは逃れられるはずです。

最後は自分が楽しめたかどうか! わかっちゃいるけどさ。。。

そんな私を見かねた友達が一言こう言ってくれました。

『結局はお前が楽しめたかどうかだろ!』

確かにそうなんです。相手がどう考えたところでその答えを知ることは出来ません。しかし、自分が楽しかったかは自分で図ることが出来ます。結局答えのないことで間違え探しをするくらいなら答えがわかることだけを見つめていればよいのだとシンプルなところにたどり着いたのです。

 

ただ、この結論は自分にとっては中々処理が難しいものでもありました。というのも相手が楽しんでくれたかどうかが私にとって私が楽しかったかどうかを図る絶対基準なのです。

私は一人で楽しむ趣味をたくさん持っています。読書、英語の勉強、ジム、映画鑑賞、旅行、食べ歩きなどです。なので、はっきり言って本当に自分が満足したいだけなら何も人と過ごす必要は私にはありません。

そんな私が人と時間を過ごす時の楽しいかどうかの評価基準は相手が楽しめたのかいなかに重きが置かれます。

 

なので、『自分が楽しめたのか=相手が楽しめたのか』である私にとっては根本的な解決作はまだまだ見つけれていないのが現状です。

まとめ

誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ

みんなの願いは同時に叶わない


宇多田ヒカル - 誰かの願いが叶うころ

この↑↑にある通り、 結局のところ誰もが最大限に望む結果を得ることはないのです。

なので、現状の私の割り切り方は自分が楽しくなることを優先する時は一人で過ごす、そして相手と過ごす時は相手が楽しくなることを優先するとしています。

 

自分が楽しいと思えることと相手が楽しいと思えることが重なり合う人を探す・期待するよりもこちらの考えの方が私の精神衛生上楽であるというのが27歳時点の私の結論です。

 

それでは、さようなら!